刺青(いれずみ、しせい)とは、針を用いて皮膚に墨などの色素を定着させて文様を描く行為、または描かれた文様を指す。
刺青は比較的簡単な技術であり、野外で植物の棘が刺さったり怪我をした際に、刺青と同様の着色現象が発生し易いため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生し普遍的に継承されて来た身体装飾技術とされる。
古代人の皮膚から刺青が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された5,300年前のアイスマンの例が有名であり、その体には刺青のような文様が見つかっている。
また、1993年に発掘された2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された刺青がほぼ完全な形で残されたまま発掘されている。
こうした直接発見された事例や、人体を模った石像に残された文様などから、古代の人類社会において刺青文化が普遍的に存在していた事と理解されている。
なかでも、日本の縄文時代に作成された土偶の表面に見られる文様 は、世界的に見ても古い時代の刺青を表現したものと考えられており、縄文人と文化的関係が深いとされる蝦夷やアイヌ民族の間に刺青文化が存在(後述)したため、これも傍証とされる。
続く弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した『魏志倭人伝』中には、「男子皆黥面文身」との記述があり、黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであるため、これが日本の刺青についての最初の記述と考えられている。
- 「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)
- 「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)
と、共通した内容の刺青に関する記述が存在し、刺青の位置や大小によって社会的身分の差を表示していた事や、当時の倭人諸国の間で各々異なったデザインの刺青が用いられていた事が述べられている。
個体識別
刺青は容易に消えない特性を持ち、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として古くから用いられて来た。
有名な例ではナチの親衛隊員が、戦闘中に負傷した際に優先的に輸血を受けられるよう左の腋下に血液型を刺青 (SS blood group tattoo)していたほか、アウシュビッツなどの強制収容所に収容された人々は腕に収容者番号を刺青されていた。
人間以外の家畜やペットに対しても個体認識のために刺青や焼印が行われて来た歴史があり、かつての欧米では囚人の管理用に広く用いられたほか、近年でもユーゴ内戦時の各収容所において刺青による識別が行われていた事が知られている。
また、こうした強制的なケースばかりではなく、出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために刺青を施したケースや、首を取られてしまえば身元不明の死体として野晒しになるおそれのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に刺青したケースなども知られている。
刑罰
罪を犯した者に対して顔や腕などに刺青を施す行為は、古代中国に存在した五刑 のひとつである墨(ぼく)・黥(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡るとされる。
墨刑は額に文字を刻んで墨をすり込むもので、五刑の中では最も軽いものだった。前漢の将軍・黥布(英布)は若い頃に顔に罰として刺青を施された事から逆に自ら黥を名乗ったと伝えられている。
日本書紀中にも、履中天皇元年四月に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述があり、雄略天皇10年10月には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺されたので、犬の飼い主に黥面して鳥飼部(とりかいべ)としたとの記述 がある。
江戸時代には左腕の上腕部を一周する形で一、二本のライン(単色)を彫る刑罰が行われた。施される刺青の模様は地域によって異なり、額に刺青をして、段階的に「一」「ナ」「大」「犬」という字を入れ、五度目は死罪になるという地方もあった。
サブカルチャー
海外におけるタトゥーは、1960年代末に世界的に流行したヒッピー文化(大麻やLSDなどの嗜好やカルト宗教への帰依などを特徴とする)に取り入れられて大きく成長したため、そのデザインや表示するメッセージなどにおいて両者は不可分の関係にあり、ドラッグ・カルチャーとの関連からヒッピー達が好んだヒンドゥー教やチベット仏教に由来する梵字 やオカルト的なデザインが多く好まれている。
近年の日本では、ヒッピー文化の洗礼を受けて比較的寛容な両親を持つ団塊ジュニア世代以降の若年層に第2世代ヒッピーが存在し、従来の刺青とは異なる意味合いでこれを受容しているため、オカルト的な宗教メッセージや薬物に関するサインを含んだデザインのタトゥーが、レイブや大麻・MDMAといった従来の日本文化には存在しなかった、新しい外来文化として流行している。
こうした風潮に対して“タトゥー”を従来の刺青と同様に反社会的なサインとして明確に関連付けて報道した例も見られるなど、依然として日本社会の刺青に対する拒否感・反感が強い事も再認識されている。
性的装飾
主に性的サービス業に従事する女性が、男性の性的興奮を高める性的装飾として刺青を施す文化が各国に存在しており、女性器の周辺を装飾している場合も多い。
性的パートナーに対する服従や、仮想的な所有関係を示すために刺青を入れるケースも知られており、日本においては暴力団関係者の性的パートナーとなった女性が、他の男性に対して一般の女性とは異なる存在である事を明示するために刺青を入れる例が知られている。
日本においては、刺青の性的側面や嗜虐性を強調した独自の絵画ジャンルも存在し、日本画家の小妻要(小妻容子)の描く“刺青美人画”や“刺青緊縛画”が一定のファンを得ていると同時に、これを海外で受容した例も知られているなど、強い影響を与えている。
東南アジアの一部の国では、適齢期に婚期を逃した独身女性が眉部に太幅の眉毛の形状(ちょうど日本のバブル期に流行した眉毛の形である)に刺青を施す事で、特定の男性に限定されずに幅広く恋愛を行う意思(=売春への誘い)を示すサインとする習俗がある事が知られている。
結社と刺青
日本の暴力団や中華系の幇など、反社会的な結社のメンバーの多くが、刺青を入れていることが広く知られているほか、現代の欧州においても、ロシア・マフィアの構成員にとっての刺青は重要な要素であり、米国の白人至上主義団体もナチの鉤十字など独特な刺青を構成員のシンボルとしている事で知られている。
日本の暴力団関係者が刺青をしていた理由としては、刺青を入れることで、社会からの離脱と帰属組織への忠誠を表したり、痛みに耐えて消えない刻印を背負うことで覚悟を示す、また“彫り物をしている”と流布する事で周囲を威圧する、等が挙げられ、そのデザインは日本の伝統的なデザインを描いた「和彫り」が主流である。
他の諸国における例でも、刺青のデザインには各組織特有の世界観や宗教観が投影されている事が知られている。
こうした組織からの離脱を希望しても、特定組織への帰属を示す刺青の存在によって難しくなる場合があるため、米国などでは自発的な犯罪組織脱退者に対しては、刺青除去手術費を公的に負担するケースもあるとされる。
刺青の技術
刺青に関する用語
- 手彫り(テボリ)
- 柄の先で針を束ね、手を動かして肌に墨を入れる。
- 羽彫り(ハネボリ)
- 手彫りのテクニック。針を皮膚に刺した後、針先を跳ね上げることで、穿孔が広がり色素が多く入る。
- 突き彫り(ツキボリ)
- 手彫りのテクニック。
- 隠し彫り(カクシボリ)
- 腋下・内股など他人には見られにくい場所に、花びらなどで隠れた名前や言葉、淫靡な絵を彫る。
- 毛彫り(ケボリ)
- 人物や動物の毛の部分を彫ること。通常よりも細い針で彫ることが多い
- 筋彫り(スジボリ)
- 下書きとしてボカシの前に全体のアウトラインを彫る。
- ボカシ(あけぼの)
- 墨の濃淡や各色を用いて、全体を彫っていく。
- ツブシ
- 塗りつぶすこと
- シャッキ
- 手彫りの音
- 機械彫り(キカイ・マシーンボリ)
- マグネットの磁力または、モーターのロータリー運動を用い、機械の上下運動により肌に針を刺す。束ねられた針には、浸透圧により墨が蓄えられる構造。
- 半端彫り(ハンパボリ)
- 彫りの痛みに耐えられなかったり、費用が続かないなどで、絵が途中までで終わっていること。
- 白粉彫り(オシロイボリ)
- 血行が盛んになると浮き出ると言われている彫り物のこと。創作上の話であり、現実には不可能である。蛍光塗料を用いて、ブラックライトに浮かび上がる刺青は存在するが、やはり通常の状態でも絵の存在は見える。
尚、マシーンを使ったから「洋彫り」、手で彫ったから「和彫り」とは一概に分類できず、絵の画風や全体の様子で判断する。和風の絵でも筋(アウトライン)はマシーンで、ぼかしは手彫りで行うなど、手法は彫師により千差万別である。
芸術性
日本の刺青は海外での評価も高く、その歴史や伝統の継承なども含めて、多くの賞賛と尊敬を受けている。 現に、2008年ロサンゼルスにて行われたBODY ART EXPO LOS ANGELSでは、福岡の彫洋がベストバックアーティスト賞の1位を受賞している。
欧米では漢字を入れるタトゥーも流行っているが、漢字を母国語として使用する人々からみると、その意味などが奇妙に見えてしまうこともある。同様の事は日本の梵字ブーム についても当てはまり、彫師が梵字の意味を知らないまま依頼者の信用へ重大な影響を与えかねないデザインを入れてしまった例 もあり、彫師の言葉を鵜呑みにせず、彫る前に知識のある人に確認するなど慎重な検討が必要である。
美容用途
女性の眉や唇などに針の深度を浅くしたアートメイク・タトゥー(数年で薄くなるが完全に消えはしない)を施すほか、南アジアやアフリカの女性が施すヘナ(植物性の染料)を用いて手に模様を描く(染料なので消える)事が行われている。
TATsと呼ばれるエアブラシを用いて皮膚表面に色素を定着させ、針を使った刺青に近い描画を可能とした技法も存在する。この手法では一度描いた文様を油性溶剤を用いて消し去り、新たに描き直す事も可能であるため、一般的な刺青では忌避されるようなデザインであっても大胆に描く事が可能であり、刺青を入れる前にデザインが自分に合うかどうか事前に確認する用途にも用いる事ができる。
また、神社の祭礼時の出店などで良く売られている、模様の印刷された極薄のフィルムに超微粒子の顔料を使用した、プラモデルの耐水デカールの様に肌に転写する「タトゥーシール」もあり、ファッションの一部として用いられているが、こうした“消せるタトゥー(刺青)”の存在が「刺青は消せないが、タトゥーは消せる」といった誤った認識を一般人の間で蔓延させる要因ともなっている。
美容用途の刺青は人間以外に対しても行われており、色素が薄い白毛の犬などの鼻部に生じてしまう白斑を隠すために黒色の刺青を施し、ドッグショーでの評価を上げるケースなどが知られている。
医療的側面
オートクレーブ(加圧加熱減菌)などでは、血の固まりの中のウイルスや変質した蛋白質を死滅させる事はできず、通常の針の殺菌・滅菌処理では、ウイルスの感染を防げないことを知らない施術者たちが、不衛生な設備で施術を行っている。特にC型肝炎の伝染に注意する必要が有る。
また、刺青を入れた者に対してはMRI検査を行うことはできない。これは刺青に用いられる色素に微量な金属が含まれるためで、知らずにMRI検査を受けてしまうと火傷を負ったり、刺青が変色したりする場合があるため、トラブルを避ける目的からも、事前に問診表などで確認される。
美容外科では以前より刺青除去の手術がおこなわれているが、肌の表面を削りガーゼで顔料をすいとる方法を繰り返したり、自家植皮をしたり、小さければ縫い合わせたり、レーザーで色素を分解したりする。
これらの除去手術は手術痕が残る上、再三に亘る手術が必要であり、患者は苦痛に耐え続ける必要があり、保険非適用であるため多額の費用が必要となり、難治療であるとされる。
刺青を入れる際は、こうした事情を十分に考慮する必要が有る。
日本の刺青
日本において刺青が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。
かつては入れ墨(江戸時代の刑罰に由来し否定的なニュアンス)と彫り物 (芸術性を認識した肯定的なニュアンス)が多く用いられたが、近年では小説『刺青』、映画『TATOO<刺青>あり』、中森明菜の楽曲である『Tattoo』や、ロシアのアイドルユニットである『t.A.T.u.』といったポップカルチャーの影響から、刺青やタトゥーと書かれる事が多くなった。
このほかにも、
- 入れ墨、剳青、刺青(いれずみ/しせい)
- 文身(ぶんしん)、紋身(もんしん)
- 倶利迦羅紋々(くりからもんもん)
- 黥(げい)、彫り物(ほりもの)
- 紋々(もんもん)、タトゥー
など様々な表現で呼ばれており、刺青を施す行為も墨を入れる、彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。
また、日本の伝統的な刺青を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における刺青の呼び名であるタトゥー(Tattoo)を洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく、その一般的なイメージと、デザイン・描画の技法に違いがあるのみである。
法的側面
刺青に対する法的規制は、敗戦後の1948年(昭和23年)の新軽犯罪法の公布とともに解かれたため、現在の日本では刺青そのものに対する規制は存在しないが、現在でも、刺青を入れた者は暴力団構成員と認識され、公衆浴場や遊園地、プール、ジム、ゴルフ場等への入場を断られる事がある。
また、各都道府県・自治体の青少年保護育成条例等によって、未成年者に刺青を施す行為が禁止されている地域があり、発覚した場合には彫師が処罰される。
司法当局は刺青の有無を当人の社会的スタンスを示す明確な指標として認識しており、逮捕された者は留置施設において刺青の有無確認とその写真を撮影される。
警察・検察での取調べや公判に際しては、刺青の存在が担当官の心証に反社会的性向の象徴として捉えられるため、結果として量刑に影響を与える事が多い。
刺青がかつて刑罰のひとつだった事や、現在でも暴力団関係者の象徴として一般的に認識されている関係から、良い印象は持たれておらず周囲の人々から悪い噂を立てられる事が多い。
刺青が原因で勤務先からマイナス評価を与えられ たり、懲戒解雇の対象とされたり、コンプライアンスの観点から業務契約を破棄されたり、と社会生活上様々なリスクを負うケースも多い。
また、生命保険会社は暴力団関係者の加入を断っているため、申込者に刺青がある事が明白な場合、その加入を断るケースもある。
日本における刺青の歴史
古代
縄文・弥生期の日本は、世界でも有数の刺青文化を有していたと考えられているが、集権国家が形成されはじめた古墳時代になると、人物を模った埴輪の表面は文様を持たない簡素なもの となるため、これをして刺青の風習が廃れたと主張する意見がある。
また、古代の畿内地方には刺青の習俗が存在せず、刺青の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。 これは、古事記 の神武天皇紀に記された、伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された刺青)を見て、伊須気余理比売が驚いた際の記述 を論拠とするものである。
これに対して、顔に刺青と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土 している例や、出土地域によるデザインの違いから類型化 もなされている事実などが、反証として挙げられている。
一方では、集権化の進行とともに社会構成が変化し、大部分の人口が権力者に所有される存在となった事で、個人の社会的身分を示す刺青が不要となり、刺青が権力者や呪術者、特殊な職能を持つ者(馬飼・鳥飼など動物の飼育を担当する者達) など一部の人々の特権的なサインとなり、これを反映して刺青を施された埴輪が少数となった、との考察も存在する。
奈良時代以降
古代の日本における刺青の習俗が廃れるのは、王仁および513年の百済五経博士渡来による儒教の伝来以降と考えられ、以降の律令制の確立とともに刺青は刑罰としての入墨刑に変化した。
一方では、律令制の確立と密接な関係を持つ遣唐船の乗組員達に刺青の習俗があったとされ、後に発生した倭寇集団もまた刺青を入れていた事が知られており、海上交易や漁撈を生業とする人々の間では、呪術と個体識別の用途から、広く刺青が行われていた事が知られている。
このほかにも蝦夷や隼人といった人々や、儒教と対立した密教の僧侶によって、刺青の技術が継承された。 [25] [26]
また、戦国時代には死を覚悟した雑兵達が、自らの名や住所を指に刺青で記す個体識別目的の習俗があったとされる。
江戸時代
現代に続く日本の華美な刺青文化は、江戸時代中期に確立されたものと考えられている。
江戸や大阪などの大都市に人口が集中し始め、犯罪者が多数発生するようになったため、犯罪の抑止を図る目的で町人に対する入墨刑が用いられ、容易には消えない入墨の特性が一般的に再認識された事で、その身体装飾への応用が復活した。
遊郭などにおいては、遊女が馴染みとなった客への気持ちを表現する手段として、「○○命」といった刺青を施す「入黒子」と呼ばれた表現方法が流行した。
こうした風潮に伴って、古代から継承された漁民の刺青や、経文や仏像を身体に刻む僧侶の刺青といった、様々な刺青文化が都市で交わり、浮世絵などの技法を取り入れて洗練され、装飾としての刺青の技術が大きく発展した。
装飾用途の刺青は入墨刑とは明確に区別され、文身と呼ばれる事が多く、江戸火消しや鳶などが独特の美学である『粋』を見せるために好んで施したほか、刑罰で刺青を入れられた前科者がより大きな刺青を施すことでこれを隠そうとする場合もあった。
背中の広い面積を一枚の絵に見立て、水滸伝や武者絵など浮世絵の人物のほか、竜虎や桜花などの図柄も好まれた。額と呼ばれる、筋肉の流れに従って、それぞれ別の部位にある絵を繋げる日本独自のアイデアなど、多種多様で色彩豊かな刺青の技法は、この時代に完成されている。
十九世紀に入ると刺青の流行は極限に達し、博徒・火消し・鳶・飛脚など肌を露出する職業では、刺青をしていなければむしろ恥であると見なされるほどになった。
幕府はしばしば禁令を発し、厳重に取り締まったが、ほとんど効果は見られず、やがてその影響は武士階級にも波及して行き、旗本や御家人の次男坊・三男坊や、浪人などの中にも、刺青を施す者が現れるようになり、デザインにも「武家彫り」や「博徒彫り」といった出身身分の違いが投影された。
下総小見川の藩主内田正容などは、一万石の知行を持つれっきとした大名でありながら彫り物を入れていたと言われる。ただし正容の場合は、さすがに幕府も看過することはできなかったようで、後に不行跡を理由に隠居を命ぜられた。
時代劇で有名な遠山金四郎に刺青があったとの伝承が残されているが、これを裏付ける資料は発見されていない。
また、当時の武士階級の間では、刺青のある身体を斬る事に対して、その呪術性への恐れから生じた忌避感情が存在していた事も記録 されており、市中では帯刀できない町人にとって、刃傷沙汰を避ける自衛策としての側面もあった。
蝦夷・アイヌ・琉球
日本領に編入されるまでの蝦夷、アイヌ民族、琉球王国の領域では、それぞれ独自の刺青文化が存在した。
日本書紀』の記事中には、武内宿禰の日高見國からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していた事が記されている(景行27年2月条)。
アイヌ民族の刺青は成人女性が手や口の周りに施すものが知られており、1871年(明治4年)以降禁止されたが、隠れて行なわれることも多かったとされ、文化的に重要な位置を占めていたとされる。 また、現代のアイヌ女性が重要な儀式に際して口の周りを黒く塗るのは、かつての習俗の名残とされる。
琉球王国では「ハジチ(刺突・パリツク)」と呼ばれた刺青文化があった。ハジチは女性のみが行い、本土にさらわれないための魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰、成人儀礼としての意味があり、美しさの象徴ともされた。
笹森儀助は宮古島では11, 13歳に施す成女儀礼であり、またそれがないと後生に行けないと著作に記しており、かなり強制力があったようである。 沖縄本島では14歳くらいから施し始め、少しづつ文様を増やしていく。文様には地方によって微妙な違いがあり 、両手に23の文様を彫りこんで完成とし、その頃が結婚適齢期とされていた。文様のそれぞれには太陽や矢といったさまざまな意味がこめられていた。宮古島の場合は手背や前腕に彫り、文様が多彩で、米のご飯をたべる女性に育って欲しいという文様もある。
琉球が沖縄県として日本へ編入された後も、しばらくこの旧習は維持されたが、1889年(明治22年)10月21日に沖縄県にもハジチ(刺青)禁止令が出されたため、ハジチの習俗は廃れた。しかし平成の初め頃までハジチを施した高齢者がみられたと伝えられている。
明治以降
明治維新以降、近代国家体制の構築に邁進した新政府は、1872年(明治5年)の太政官令によって入墨刑を廃止するとともに、同年11月に司法省が発令した違式註違条例を受けて旧幕臣出身である大久保一翁東京府知事が発した布告によって、装飾用途の刺青を入れる行為を禁止 し、既に刺青を入れていた者に対しては警察から鑑札が発行された。
以降、1948年(昭和23年)まで日本における刺青は非合法の存在となり、刺青を施す行為は厳しく取り締まられ、当時の彫師達は取り締まりを恐れて住居を転々と移した。
しかし、日本の伝統的刺青の芸術性と高い技術は外国船の船乗りを通じて世界に広く知られ、1881年に英国のジョージ5世とアルバート皇子が来日した際に入れ墨を入れさせたと伝えられている 。
また、1891年に皇太子時代のニコライ2世(ジョージ5世の従兄弟にあたる)とギリシャのゲルギオス皇子が来日した際にも両腕に龍の刺青を入れたことが知られている 。
明治初期における厳しい取締りの後、刺青はある程度黙認される存在へと変わり、小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)のように禁令後に刺青を入れながら政治家として活躍する人物も現れた。
また、刺青の持つ性的装飾としての側面や嗜虐性も、この時期から大衆文化のなかで再度クローズ・アップされはじめている。
こうした背景から、谷崎潤一郎の『刺青』発表の後、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」のように現代まで継承されているキャラクターが出現したほか、横溝正史は多くの作品で刺青をモチーフとして、あるいは小道具として多用した事で知られている。
各国の刺青事情
- 米国
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